藤沢市の日大での非常勤講師の勤めを終えて向かったのは、六会日大前から15分ほど、我が母校である慶応SFC方面。けれども学校内には入らずに(笑)そのすぐ外にある畑へ。実はこの日、農業の師匠のお一人である飯島農園さんから「藤沢に来てるうちに一回ご飯食べにおいで」と言っていただいたのだ。そしてタクシーで向かう途中、「畑に寄ってきて下さい」という連絡が。何だろうと思って畑に行ったら、もう日も暮れているというのに現・八百藤のメンバーが僕に会うために居てくれた!
八百藤(やおふじ)は僕が1992年に創設した「畑サークル」だ。入学した1991年、すぐに事務室に「畑をしたいから土地を貸して!」と交渉。「君、なにいってんの?」と追い返されつつ足を運び続けるうちに「大学院建設予定地をしばらく貸してあげる」と折れてくれ、そこを開墾して2年半の間、作物を植えていた。大学院建設が始まるとそこは潰されてしまったのだが、学校の外にできる駐車場の1反5畝くらいのスペースを、駐車場2台分の金額で貸してくれることになった。いまでも恩情厚い学校だと感謝している。
その畑に隣接していたのが、地元の農家である飯島さんの果樹園だ。飯島さんはSFCのキャンパスになっている土地の多くを売ってくれた方でもある。そう、SFCが建っているのはもとはと言えば彼らの畑だったのである。最初、学生たちがわいわいと農業ごっこをしているのを観ていながら、そのうちにいろいろ接点ができて、農作業をおしえていただけるようになった。そして「うちの畑の使わない場所を貸してやんよ」ということに。これが写真に写っている畑だ。骨組が見えているが小さいながらもビニールハウスまである。
うわー あまり変わってないなぁと思いつつ畑に上がり、皆と握手。みんな、サークルを創った人間が来るというのでニコニコしながら待っていてくれた。サークルが続いていくのって、すごいな。もちろん、もはや僕の手は完璧に離れているわけで、代々のメンバーが続けてきてくれたのだ。
それにしてもみななんとなく、学生時代にふれあった後輩たちの顔に似て見える。やっぱり数あるサークルから畑での農作業なんてのを選ぶ子達は、みなどこか共通点があるのだろう。
ちなみに、設立当初は「化学肥料と化学合成農薬は使わない!」という主義でやっていたのだが、いつのまにか化成肥料を使うようになっていた。また設立当初は居酒屋などでのコンパは禁止、畑の作物を料理して部室で呑む、というアホな主義を貫徹してた(だから、夏はナスとピーマンばっかりとかになる)が、これもいまや雲散霧消しているだろう。あと、せっかくの広い畑なんだから、ひとつの作物をどーんと、長い畝を切って、売れるくらいに造ろうぜと言い続けてきたのだが、やっぱり他品種少量生産してるんだな。それも移り変わりだ。続けてくれてるだけで嬉しいよ。みんなありがとう、頑張ってな!
しばしの交歓の後、別れを告げて飯島農園へ。
尊敬する師匠は好々爺になってました(笑)
それにしても嬉しかった。以上、新幹線移動中の個人的なお話しでした。