2月20日付の日本農業新聞で、東大名誉教授の養老孟司さんがこんなことを書いておられる。
大学で現役の研究者だった頃、ネズミを飼って実験に使っていた。飼っているネズミは解剖して細かく調べると、同じ機関でも雌雄で違いがあったり、他の種類のネズミとはまた違ったりする。その違いは、野生で暮らしている状態がわからないと、違う理由がわからない。けれどもそんなことはどうでもよくて、ある決まった条件で生きている。それが実験動物ということだ。
そんな実験動物としてのネズミを、養老さんは「動物の代表」としてはみられなかったという。
「実験室で飼われているネズミって、あれはいったいなんなのだ。」
という前段があって、それは一体何の話につながるのか。
「実は農業のことでもある。空きビルで野菜を水耕で育てる。それをたべて生きていくには、それで十分かもしれないけれど、何かが違う。何が違うのか。」
地面で育てると、土の中にはいろんな要素がありすぎて科学の世界では「よくわからない」。コントロールした一定の条件下での実験ができないということだ。だから、コントロールできる環境下で農学の実験がなされる。そこでは、土ではなくてもいいし、有機物ではない合成物でもよいとなる。
「そこで育った作物を食べたくない。そう感じるのは、まさに感覚である。実は文明は感覚を抑圧する。感覚が鋭いのは動物、ヒトなら子供である。そういう感覚が消えたヒトを増やせば、有機農業もクソもない。生きられれば、それでいい。そういう世界がどんどん進んでいるとしても、私のせいじゃないという気がする。だって感覚の問題で、これは感じない人は説得のしようがないからである。」
そうだ、本当に、論理的な説得のしようもない。感覚の問題なのだから、、、遺伝子組み換え技術も、BSEの発生可能性も、成長ホルモン剤の投与なども、感覚的に嫌だから嫌だとしか言えない。科学的にリスクがどうこうだと言われても、それを認めることと、受け入れることとは違っていていいはずなのだ。養老さん、言語化してくれてありがとうございました。そういえば、大手町の大きな会社のビル内では、まだ膨大なエネルギーをかけて、野菜栽培をし続けているのだろうか。
養老さんの書いた「文明は感覚を抑圧する」と同じようなことを言っていた人がいた、と思ったら、それは卸売市場の発展に尽くしてきた江澤正平さんの言葉だと思い当たった。僕は彼の口から直接、こんな話を聴いたのだ。
「あのね、野菜は文化。文化は自由に拡がっていくんだ。でも、流通は文明。文明とは文化を規制するものなんだ。だから野菜の文化が停滞するようなら、流通を作り直してかなきゃいけない」
今の日本のいろんな分野に言えることかもしれない。野菜など第一次産品の流通の仕組みは、ほぼ昭和の高度経済成長に向かう中でできてきたものだ。もうすでにその枠組みは時代に合わなくなって久しい。けれども、そのままの方が都合がよい場合もあり、ズルズルとここまで引っ張り続けてきた。電力だって通信だってそうだろう。文明をいきなり変えるのは難しい。さて、どのようにソフトランディングしていけるのだろうか。
それはともかく、いつも言うことだけど、農業のことを論じようという人がいるなら日本農業新聞くらい購読しといた方がいい。この新聞社はJAグループだから、体制翼賛の記事しか書かないだろうと短絡的に考えているならそれは違う。そんな記事もたまに載るけど、飛ばしゃいいんだ。多くは、大新聞が載せないTPPのせめぎ合いや、食品と放射能との戦いのディティール、そして農家のあえぐ声が掲載されているんだから。
あ、脱線したけど、養老孟司さんのコラムは、ネットにも全文載るといいなぁ。