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2005年02月01日

陽光の国・シチリア食い倒れ見聞記 ミラノで考えたこと

シチリア編が続いているけどここで一息。ミラノに来て、カフェなど廻っている。

こちらに来て、うーんと考え込むことが多い。それはイタリアの食の豊かさということへの感動なのだけど、最初の興奮が過ぎ去って、少しだけ冷静に観られるようになり、考え方がまとまってきたので、書いておきたい。

11時頃、コーヒーを飲もうとバールに入る。「ウン・カッフェー」で一杯のエスプレッソが飲めるわけだけど、どのバールでもその脇には、様々なハムやチーズを挟んだパニーニなどがぎっしりと並べられている。
IMG_0139.jpg

観ていると、ビニールに入った巨大なハムの塊をどすんとカウンターにおいて、スライサーで薄切りにし始めた。そのハムの巨大さと、精肉店で使うようなスライサーが、何の変哲もないバールのカウンターに鎮座し、あたりまえのようにスライスしている風景にびっくりした。上記画像を拡大したのがこちらだ。このハム、お腹にかかえるくらいの大きさなのだ。
ham.jpg

スライスしたハムを、暖めたビタパンの上に置き、チーズ二片をのせてくるくる巻いてできあがり。ケースに並べる。このように、バールで食べられる軽食も、だいたいは店で完成させるのがイタリアのバールでの日常のようだ。日本のように、既製品のサンドイッチが並んでいる風景はみられない。そして客は、「あそこのカフェーは旨い」「あそこのパニーニのパンが旨い」という感じで、名指しで食べに行くのだ。

こうしたサンドイッチ類だけではなく、アランチーニ(ライスコロッケ)やショートパスタなどもカフェの奥で作り、店に並べているというのが多いように見受けられる。こうした風景に、非常に豊かさを感じてしまった。

一言で言えば、どの店も個人も、オリジナルであることを求めていて、それを具現しているようにみえるのだ。

日本のカフェでも、店頭でサンドイッチを作っている店はかなりある。しかし、日本ではFCチェーン展開が進んでいるのが普通だろう。その場合、大量生産された具材やバンズが並ぶのが普通だ。だからオリジナリティがない。イタリアでは、バールはあまり派手にFC展開されていないようにみえる。一軒一軒が独立していて、洒落ている。日本の個人経営の喫茶店のようだ。それが、メルカートなどに溢れている多種多様なメーカのチーズ、パン、加工肉などを選んで仕入れ、独自の組み合わせで出しているのだ。

このように、簡単な料理でも自分の店で調理するバール文化に感動したわけだが、じゃあ日本ではどうなの?ということだ。

先に出したように日本のカフェはだいたいがFCだから今ひとつ楽しくないが、カフェという業態自体が日本のものではない。イタリアのカフェを日本のカフェを比べてもしょうがないのだ。カフェは、コーヒーなどの飲み物が飲めて、軽食も食べられる。さっと立ち飲みもできて、座ってゆっくりすることもできる場所だ。日本では同じようなところは少ない。昔ながらの喫茶店という存在といえるだろう。

ただ、喫茶店の食事というのはあまり比較にならない。日本で先述のようなパニーニなどの豊かさに匹敵するものはなんだろうな、と考えた。

なんのことはない。日本にもある!それはご飯だ。白飯とみそ汁と漬け物、そして干物でも卵焼きでも一品つけば、それだけで十分な食事だ。そして、だいたいどこでの家でも店でもオリジナルな味付け(米を選べる、みそ汁のダシや味噌を選べる、漬け物のバリエーションも豊富)を追求できるではないか。

そう考えた途端にすっきりした。

そのすぐ後に問題につきあたった。では、そうしたご飯文化がきちんとイタリアにおけるカフェー文化なみに行き届いているだろうか。そう言われるとなんだかはっきりしないな、というのが感想だ。

日本には、いろいろとご飯を食べさせる店があるが、オリジナリティを発揮しているのはやはり個人経営の定食屋であったりラーメン屋である。コンビニやファミレスの食事は、すべて画一化されている。

そう思ってミラノの町並みを眺めると、たまにマクドナルドがあるが、飲食チェーンというのがあまりないことに気づいた。欧州ではスーパーマーケットはチェーンの寡占化が進んでいるのだが、こと飲食店については、個人経営的な店が圧倒的に多いようにみえる。

この辺に日本の食とイタリアの食を比べた時に、少し後ろめたさを感じるという問題の根があるように思った。

もうすこし考えを進めていくと、キーワードは「家庭料理の消失」ではないか、と思うに至った。もう少し歩きながら考えてみたいと思う。

Posted by yamaken at 2005年02月01日 21:06 | TrackBack
Comments

「家庭料理の消失」…本当に日本の食文化の行く末ってどうなるんでしょうね。
キンピラや卯の花、煮物やひじき煮、炒り豆腐など昔ながらのおそうざいが食卓が登る家庭がどれだけあることなのか?
そう考えると本当に怖いです。

Posted by: kuraki at 2005年02月01日 22:38

ヨーロッパには、食べるものも含めて「自分で作る」ことの大切さということが根底にあるように思えますね。これは食に限らず文化全般について。あと、伝統重視的なところ。日本は開国と太平洋戦争敗戦によるアメリカ支配で(多分)、欧米一流、日本二流みたいな強迫観念ができてしまって(マスメディアが未だにそういう姿勢なのには驚かされる)、かつては日本にもあったであろうそうした文化がどんどん軽視、忘却されていますよね。
まぁどんな会の一件を筆頭に(もちろん生産者さんのことも含めて)、やまけんさんがいわゆる郷土食的な食品や食材を地道に作っている人達、その姿に惹かれているのは、イタリアにはあたりまえにあった(と見受けるのですが)「作り手の文化」を大事にしているからではありますまいか。

私は静岡ツアー多分行けませんが、ただ「旨いものを食べに行く」のではなく、そうしたものを提供している人の職人っぷりの凄さも味わってきて欲しいなと思う訳です。多分彼等の中にある職人根性はヨーロッパのそれと同根と思われるので。

長くてすみません。

Posted by: らっぱー at 2005年02月02日 03:45

党首!そうなのよね…この点はまた魚仁あたりで語ろうぞ(笑)

Posted by: at 2005年02月02日 09:16

サンフランシスコ在住の愚兄曰く「シスコって街にはチェーン店がほとんどナイ、なんでだか分かるか?チェーン店よりも美味い店がたくさんあるからなんだよ。へたすりゃ値段も安い」と言ってたのを思い出しました。

で、画一的なファミレスが日本で多いのは、オリジナリティを追求する楽しさよりも、どこでも同じ味・システムという安心さ(居心地のよさ?)を重視する消費者がかなり多いからでしょうか(?)。

Posted by: ぷらちな at 2005年02月02日 23:42

皆さんのご意見、ごもっともと思いながら拝見させていただきました。
日本では食(文化)に対する意識が希薄だから、お手軽な(用意周到にシステム化された)チェーン展開の飲食店に流されているのかも知れないですね。
ミラノ市内にもチェーンショップ(オートグリル・チャオなど)はあるのに、その近くに個人商店のカフェは沢山ありますよね。
カフェ文化もスローフードもブーム、商売で語られてしまうのは残念です。

Posted by: sasa at 2005年02月04日 00:25

 僕の引っ越した所は古くからの街でチェーン店が(比較的)少ない。安くて美味くて楽しい個店が多いし、小割りの敷地なので大型店は出店しづらい、ってのはが僕の仮説。
 でもね、そういう店ってのはやはり今は新参者にはなかなか入りづらかったりもするんだよね。(僕はたまたまうまく入り込めたので幸せですが)
 食文化そもものはもちろんだけど、シチリアのクチコミ文化や街のつくりも関係するのだろうな。。。

Posted by: ippo at 2005年02月06日 17:21